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7 Sketch(es) of…
2026.02.18 Wed. 9:08
この文章を書いているのは南千住、ドヤ街と言われる街の入り口付近にあるホテル。 あるきっかけからこの街に来るようになって8ヶ月、南千住はいつのまにか馴染みの場所になってしまった。
昔、それは僕が20代中ごろ、山谷と言われるこの付近には早朝に開店する安価な立ち食い寿司屋があった。
しかしすでに閉店していたみたいで、そうした記憶のドヤ街は変わってしまったかのように思えた。
現在の南千住は、例えば関西のそれとは大きく違って、語られるよりもかなり静かだ。
それでも活気がないともまた違う、新しい建物や若者や子連れの夫婦も多く見かけるし、東京の他の街と同じように生活の場として再編されているように感じる。
治安の悪さは感じないし、弁えて動いていれば、むしろ前向きなパワーや人間の温かみを感じることさえあった。
ホテルを出て自転車にまたがる。
カメラの露出を合わせて目的地へ向かう準備をする。
今日はどのルートで目的地へ向かおうか。
ルート1はスカイツリーを左斜めに見て、464号線を南下して浅草、蔵前、馬喰町…。
ルート2は三ノ輪方面へ向かい、土手通りを南下、谷中、上野、秋葉原…。
ルート3は白髪橋を渡り曳舟方面へ、そして隅田川沿いを南下、森下、清澄白河、月島...。
どんなルートでも、南千住に泊まっているときの目的地のほとんどは、戸田ビルのある京橋だった。
自転車のスピードで風景がわかりやすく変化していく。
京橋へ向かうどのルートでも見えてくる街の成り立ち。
僕はこうした時間のなか、何度となく師匠と歩いた下町の東京を思い出し(特に森下は師匠とよく撮り歩いた。その足で月島へ向かいもんじゃ焼きを食べるのが定番コースだった。)、そして初めの頃は高梨豊の東京の写真群を思い出していた。
2023年の交通事故とリハビリに伴う高齢の祖母との生活で、身体的にも精神的にも苦痛と後遺症を抱えた僕は、何かしら回復のきっかけを必要としていた。
2024年、来年には表現活動ができるだろうと希望を持ったが、後遺症はたびたび僕の身体を制限し、祖母の症状の対応では精神を絶望が侵食していた。
つい最近出版された究極Q太郎さんの詩集のタイトルは『散歩依存症』。
タイトルを見て、散歩に依存することで鬱を乗り越えたいつかの自身の日々を思い出したが、2024年あたりのその頃は、そもそもまともに歩くことができなかったわけで、散歩に依存することもできない困難な日々だったと今になって回想する。
展示などもってのほか、これほどの絶望は他にはなかった。
それでも僕は表現に関する本を読むことだけはやめなかった。
特に関心をもって読んでいたのは、2023 ICP Infinity Awardsを受賞したAriella Aïsha Azoulayが関わった『Collaboration: A Potential History of Photography』という本だった。
この本の関心について書くととんでもない時間がかかるのでやめにするが、端的に言えば、まさにそのタイトルにあるように協働、キュレーション、アーカイブ…写真を、その歴史や関係性を再編、再読すると言った内容だ。
同じ頃、僕は僕自身の事故と超後期高齢者という祖母との経験を通して、これまでにない新しい「表現の形」を模索していた。
それは実際には「表現の形」と言っていいのかわからない、薄い輪郭の何かと何かの境界が溶け合うような、ぼんやりとしたものだったけれど。
そして『Collaboration…』について、ワードを調べたり、翻訳するうちに行き当たったのが、戸田建設の新しいビルTODA BUILDINGSで始まるラーニングプログラムAPK STUDIESだった。
「これだ」と思った。
そんなわけで、APK STUDIES第一期成果展が始まり、そして終わった。
事故から始まる僕にとっての一つの時間が終わったのだ。
APK STUDIESについてはまたいつか書けたら良い。
一昨年亡くなった地元の友人、省吾さん。
高校生のころ、省吾さんに「Jazzは何を聴いたらいいですか?」と尋ねると「マイルスとギル・エバンス」と返ってきた。
それから僕は、少しして上京し、マイルスとギル・エバンスのいくつかのアルバムを経て、二人の共作とも言えるアルバム『Sketches of Spain』を買った。
僕には実験音楽のように感じられてとても好きなアルバムになった。
それからたくさんの時間が過ぎて再会した省吾さんに『Sketches of Spain』の話をすると「駄作!」と言われた。
それを聞いて僕は大いに笑った。
ねぇ、本当に…省吾さんを知る人なら、そんな一刀両断な彼の感じを思い出すでしょ? APK STUDIESの展示タイトルは、そんな省吾さんへ少しだけオマージュを捧げている。
今作のタイトルを変更しなければいけない必要に迫られていた時、たまたま目に入ったアルバムが『Sketches of Spain』だった。
あのような肩肘張らない展示なら、省吾さんも来やすかっただろうな、と思う。
そう、つい最近ナム・ジュン・パイクの”Bye Bye Kipling”を横浜で観た時も省吾さんを思い出した。
坂本龍一やルー・リードが出ているとてもやかましい祝祭的な作品だ。
横浜美術館にVelvet Undergroundの”Sweet Jane”が響いた時は、思わず省吾さんに連絡したくなるくらいだった。
”Sweet Jane”は都市を愛情を持ってスナップしたような歌詞で、その主人公は都市に暮らす”平均的な”クィアな人々だ。
改めてこうした総合的な表現の話をできる人がいなくなったと感じてまた少し寂しくなる。
けれど反面、省吾さんがいなくなったからこそ、そのタイミングだからこそ今があるとも感じている。
閑話休題。
(しかし何が本線で何を脱線しているといえるのだろうか)
この文章をここまで書き上げて、昼休憩もかねて散歩に出ることにした。
目的地はごくたまにしか開いていない南千住の街寿司だ。
宿を出るとスカイツリーが見えた。
寿司屋へ向かうつもりが、正午の太陽に誘われた。
心のままに歩いていく。
いつのまにか労働者や老人たちが地べたや建物のヘリで佇んでいる場所へ来てしまった。
通りに見える公園は、人が住みつかぬようフェンスだらけでまるで迷路のようだった。
そのうちに、建物と建物の間の1.5人ほどの隙間にたくさんの老人がいるのが見えた。
老人たちは壁で身体を支えながら並んでタバコを吸っていた。
その光景は、彼らが肉体労働者だった頃の履歴を表しているようだった。
対面の新しい高層マンションから若い夫婦がベビーカーを引きながら現れた。
ふと思い出してダンボールを買いにヤマト運輸へ向かう。
敬老室を見かけて、入り口の文言を読んでみた。
僕はその文言に、東京における高齢化社会の一つの在り方を見た気がした。
高度経済成長期に今の東京を作り上げた人たちの街、そしていつの間にか見えなくなり、いま現在は福祉に囲われている街。
この街の人々が丁寧で温かい理由がわかった気がしたし、この街に来ると文章を書きたくなる人たちの気持ちもわかった。
そして愛着の理由も。
宿へ戻ろう。
昼食はコンビニのパック寿司で済まそう。
レジに並んでいると、地元の人が「頑張ってね」と店員に声をかけていた。
コンビニを出ると、地べたに座った酔っぱらいがウサギの着ぐるみを来た外国人を指さして「人間じゃないか!」と叫んでいた。
僕は、この街をできるだけ知った気にならぬよう、できるだけ迷惑をかけぬよう、旅行者風情で宿に帰った。
今回の展示はその多くの時間が家族への感謝だった。
僕の事故でたくさんの心労を家族へかけた。
事故直後のあの脚を見た時の母の顔は一生忘れない。
そしてその後やってきた祖母の変化。
そのために、祖母が安心して生きるための方法を家族みんなで模索した。
祖父が亡くなって以降、僕ら家族は休まることがないくらい難しい時間を経験し続けた。
極め付けが、何度も書くが2023年の僕の交通事故だった。
昨年2025年8月の終わり頃、事故から2年近くが経ち、なんとなくうまく行っているかに思えた身体が急に痛み始めた。
痛みは怪我をした足首ではなく、太もも、腰、首…各所に出てきて、特に腰の痛みは格別だった。
そして、その断続した痛みに於いて、個展の予定を延期しなければいけなくなった時、僕は本当に創作をやめなければいけないと考えて再び絶望した。
一時は椅子にすら座れない状態まで悪化し、京橋へも通えないかもしれないと想像した。
何か一つ行動するたびに、休息が必要な身体になってしまった。
そして、もう一つの障害や薬の副作用によって画面の光が目に痛く、言葉を書くことができなかった。
先週、そんな僕の身体が一つの時間を終えた。
痛みとの付き合い方も覚えて、なんとかやりようはあると、身体を信頼することができるようになった。
そして祖母は、デイサービスへ行くようになり一年が経った。
96歳にして、新しい社会とその仲間を持った。
身体も心も極限まで家の心配ばかりしていた祖母は、時に症状の波はあるものの”ちゃんとおばあちゃん”になった。
長い長い一つの時間が終わった。
あるいは僕はやり遂げて、自分だけのゆっくりとした時間を手に入れたのだ。
長い間SNSの更新や人への連絡や反応をしないでいると、やけに心配されたり、思わぬ噂を立てられたりする。
しかし、放っておいてほしいと思うことが多かった。
僕は僕の回復のために一生懸命なだけだったし、この痛みを誰かと共有するつもりはなかった。
そう、毎日スマホを見ていれば、時間が早く感じられるだろう。
人の動きや更新に焦ることもあるだろう。
痛みや苦しみで承認を誘いたくなることもあるだろう。
驚きと刺激が当然の毎日になるだろう。
世界がそうして回っていると感じてくるだろう。
だけど傷も心も、そして認知症(との付き合い方)も…一歩一歩積み重ねることでしか本質はみえてこない。
そしてなにより、アーティストはスマホを気にするよりも、もっと他に大事なことがあるだろう、いまそんな風に感じている。
最後に、APK STUDIESで多様なメンバーと会えたこと。
それから事務局の人たち、藝との人たち、戸田建設の人たち。
この時間を通して都市で出会った人たち。
途切れるばかりで進まない制作を献身的に支えてくれた友人たち。
数週間返事を返さなくても、さっきまで会っていたように接してくれる友人たち。
おかげさまで僕は回復することができた。
本当に感謝している。
ありがとう。
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6 死について自意識が作り出す悲しみには切りがないのだから
2026.02.09 Mon. 8:02
2023年9月の初め、友人の子どもと本屋へ出かけた。
その日、本来はひとり静かに本を探す予定でいたのだが、急遽友人の子どもと出かけることになった。
僕らは児童書のフロアで友人の子どもの買い物を済ませたあと、人文科学のフロアへ移動した。
子どもには退屈なフロアのはずで、僕は本を見つけてできる限り早く、次の予定が待つ場所へ移動するつもりでいた。
すると友人の子どもが突然尋ねてきた。
「死ぬってどういうこと?」
僕を見上げるその顔は、その目は、その視線は、答えを返すまで僕を離さぬようだった。
彼のジェスチャーの先には「死」という文字が大きく書かれた本があった。
それで、そして、それは何を聞きたいのだろうか?と思った。
「彼自身の死」について、「誰かの死」について、「死一般、一般的な死」について、そのどれでもない死について。
どう答えたらいいものか考えた挙句「漢字、読めるんだね」と話を逸らして、僕は目当ての本を持ってレジの方向へ彼を促したのだった。
会計を済ませて駅へと続く長くて深いエスカレーターに乗った。
このあと僕らは地下鉄に乗って彼の親であり僕の友人が待つ東京ドームシティへ向かうことになっていた。
友人の子どもは、エスカレーターの透明な内側板から見える底知れぬ暗黒、そこに浮かんでいる様に輝く電飾を眺めて、そのうちに上へ下へと運ばれていく風景に顔を近付けては離して、視角を変えては驚いて、彼は彼の背丈で起こる発見の世界を楽しんでいた。
「(死の本は)大きくて重かった」と友人の子どもが言った。
目を輝かせて、彼の後ろに滲んで過ぎていく電飾みたいに。
僕はその言葉が彼にとっての「死」の重さを表しているように感じた。
けれど、子どもに「死」の重さがわかるのだろうか。
友人の子どもはこれまで「死」という文字を、「死」を目にする機会はあったのだろうか?
目にしたとして疑問を持ったことがあっただろうか?
直前の状況は、家族やペットが目の前で死んだ状況でも、道端の動物や虫の死骸や、まして枯れた草花を見たわけでもない、たまたま目に入った本の帯に書かれた「死」という文字を見ただけなのだった。
それはどういうことだろうか、何を聞きたかったのか。
友人の子どもはこれから向かう遊園地の話をはじめた。
その様子に僕は、彼の中から「死」についての疑問がなくなったかのように思えた。
僕は友人の子どもの疑問を誤魔化したことに少し後悔を感じていたが、彼が「死」について何か特別な印象を持ったわけではなかったように思えて安堵した。
目的の階層はまだ深い。
ふと僕は「もしここから落ちたら...」と「死」についての何事かに憑かれて、友人の子どもをいつでも掴める距離まで近寄って、さっきよりも近寄って、「そんなことは起こるわけがない」と運ばれるまま、地下鉄へ続く階層を待った。
友人の子供が電車のシートで眠っている。
地下鉄からの乗り換え、全身の力が抜けた彼はぬいぐるみのようになって僕の背中に垂れるようにおぶさり、そのまま電車に乗った。
彼の両隣、見るからに親切そうに見える二人の乗客、時折り彼に視線を向ける風で安心する。
しかしこの状況で突然目を覚まして、またさっきの顔で「死ぬってどういうこと?」と聞かれたら僕はどうしたらいいのだろうか。
まったく、そんなことばかりを想像している。
想像しながら窓の外の風景を見ていると、通り過ぎるビルにFiona AppleのPaper Bagという曲を思い出した。
「希望の鳩が舞い降りてきたと思ったらただの紙袋だった」という愛の代償をテーマにした曲だ。
その歌詞を思いだして「死」への疑問と「愛」についての疑問はそう遠くないものかもしれないと思った。
そして僕は「死」について彼に答えたくなかったのではなく、「死」について知りたくなかっただけだったと思った。
ブランシェはデ・フォレについての文章で「幼年期はその謎についてより多くを知っている」と書いた。
友人の子供は僕以上に「死」について理解しているのではないか?
僕はあの視線の先の僕の中の「死についての謎」、その答えがつまった死の扉を開けられてしまいそうで怖かったのかもしれない。
東京ドームシティで友人と落ち合い、その時のエピソードを話すと、これまで「死について」聞かれたことはなかったと言った。
子どもの変化を察知したのか、瞬間不安な様子を見せた友人だったが、その後、子どもが遊ぶ姿を眺めながら彼は自身と家族の近情について話を始めた。
そして「家族はいいよ」と僕に言うのだった。
友人は「世俗的な理由でしかないけれど」と前置きをして「家族は温かい気持ちになる、頑張ろうと思える」と言って、遊具で遊ぶ子どもに手を振りその光景そのものがまるで世俗的じゃないかと笑っていた。
「こんなふうに、家族を持つと昔の自分では考えられないような、こういうこともできる」友人は照れながらそう付け足した。
遊具は一定のスピードで回り続けて、時折り友人の子どもの視線が僕らと交叉する。
友人と僕から子どもへの視線、子どもから僕らへの視線が交叉する。
僕と友人はお互いの視線を殆ど交わすことなく子どもを見続けていた。
会話が途切れる。
沈黙が聴こえて、パースペクティブが重なり、一瞬奇跡が起こる。
見るものと見られるものが入れ替わり、僕は同時に二人と同じ視線をもったように、親でもあり子でもあるような気持ちになった。
遊具が止まり汗で濡れた友人の子どもが僕らの元へやってきた。
友人の子どもは、友人が広げたタオルへじゃれるよう飛び込んだ。
僕はそんな感覚を遠い昔に経験したかのように錯覚した。
「家族はよいものだよ」。
その言葉はつまり、独身でいる僕への友人なりの温かい心配だった。
確かに家族は、他人の家族でさえも温かい気持ちにさせる。
それから数日経って、僕はその日の出来事をまとめることにした。
これを書いているのは、新美術館から少し歩いたところにある赤坂の檜町公園。
そう、何度も確認するが、この出来事もこれを書いているのも2023年9月始めごろだ。
この文章にとって日付はとても重要だ。
いま僕の隣には友人が座っていて、僕が貸したヤーコプ・ベーメの「霊の命について」という本を読んでいる。
その本は十数年前に、神保町の神秘主義系の店の主人が「幻の奇書」だと紹介してくれた本だった。
インターナショナルスクールの子どもたちやその親たちが西陽の向こうでシルエットになる。
僕は数年前ここから少し歩いた先で、精神的な苦痛に苛まれて摂取した向精神薬とアルコールの効果によって西陽の光を絶対的ななにかとして見たのだった。
風によって僅かに秋の気配を感じる。
「香りが秋っぽいな」と投げかけると「あなたは秋っぽいっていつも言っている」と友人が呟いた。
友人の言葉に虚しくなる。
秋が好きなんだ、そう友人を無視して心で返した。
(数年前、心で会話をする女性に会ったが、今ではどうかしていると感じている)。
春でもなく冬でもなく、僕にとっては秋こそがその相貌で自然を認識させてくれる。
ベンヤミンは自然の悲しさは言葉を持たないことにあると書いた。
しかし言語はあり、その言語は風によって、太陽や月の光によってさまざまに現れるその相貌によって語られているのだとも書いた。
それは「言葉を持たないことの嘆き」。
ただのおしゃべりではなく、存在の認識。
自然も自身を認識してくれる誰かが必要なのだ。
自然はいつも嘆いているという。
その嘆きは秋にはよりいっそうの切実さをもって胸に迫ってくる。
中平卓馬だっただろうか、良い写真を見たときの感動を「胸を打つ」と言い表したのは。
中平の写真は、認識されることの自然の側からの喜びにあふれているように思える。
秋の気配は、自然の言語は、胸に迫り胸を打つ。
僕は友人へさっきの秋についての仕返しに、一つ「思い出」についての言葉、ある警句をぶつけようと考えた。
しかし思い出せなかった。
友人の方へ目を向けると「あわれな魂は、自分の意思を神に向かわせようとして肝胆をくだいたが、その気持ちは、すべて、神をはなれ、地上の事物に逃げ帰って、神のもとにむかおうとしなかった」そう書いてあるページを読んでいた。
絶対的なあの光を思い出した。
ビルのあいだを都市ではみたことのない大きな白い鳥が飛んでいた。
写真を撮らなければとカメラに手を伸ばした。
しかしそれは子どもが飛ばしていた凧だった。
イメージが写真の邪魔をした。
結局僕は、頭のなかのイメージに目も心も奪われて撮ることができなかった。
自然が、絶えず変化する世界で無限の相貌を表していただけだったのに。
『時の終わりのための四重奏』の第五楽章が鳴った。
それは、もっとも啓示的に、その日を終える様な形で。
それからぼくはいっかげつもたたないうちにまたとりつかれたようにしについてかんがえてもうじゅうぶんだとおもうことがふえてしゃしんをまとめてさんぽにでたじゅうがつむいかのゆうがたにこうれいしゃがうんてんするくるまにひかれたのだ。
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5 未練の整理
2021.02.09 Tue. 5:05こうして生活に慣れてきたタイミングで、大抵は人が恋しくなって誰かと生活したくなるんだと思う。けれど同居人のおかげでそんな考えも浮かばず、衣食住を充たされてあとは仕事を見つけるばかり。一人が良いと言ってられるのは最初だけで、同居人がいなかったらだいぶ苦しかったはずだ。とにかく仕事がしたいと思う。それも撮影の仕事ではなく何か違うこと。この生活だって同居人と僕の性格上いつまで続くかわからない。今は生活が何より発想の元になっているけれど「生活」は「移動」を前提にしているからできることで、本当になれてしまったら本来の目的が失われてしまう。

前に被災地域の村へ行った時「人が定住を始めたのはここ最近の話なんですよ」と教えてくれた人がいた。天災も含めた何かの理由で、昔は人は常に移動しながら生活をしてきたのだと。土地や所有についてもその人なりの考えがあって、被災地域のいろいろの線引きや現状を交えて話してくれた。その人もどこかから移動をしてその村で仕事をしていたのだった。僕はその話を聞いた時いくつかの小説を思い出して、自分の作品に近い感性も感じた。そして父が育った家のことを考えた。父の家は県の中心部から離れた田舎も田舎。土地は侘しくて風景は寂しい。数年前に用があって行ったのだが、現在は自然にやられ半壊状態で、中を覗くとタヌキの親子が寝ていた。そのくらい誰も来ていないのだろう。そんな場所でも税金はかかってくる。いつかは取り壊して更地にしなければいけない。その管理をするのは僕なのである。でも、残しておく理由はあるのか。あるとすれば思い出だけ。そこでの生活は考えることはできない。思い出のために土地を残すことに意義や意味を感じない。思い出への執着は過去への執着、それでは先へ進めないような気分にもなる。そう考えると土地の所有はろくなもんではないと思えてくる。
昨年の暮れ、大掃除をしながら上岡龍太郎と立川談志の対談映像を流し聞していた。二人の会話からは、ユーモアと知性が混じった人生に対する謙虚さみたいなものが伝わってきた。「人生に対する謙虚さ」なんてものを感じられるようになるとは、自分も年をとったなと感じる。つまり死を意識し始めたということ。対談の中に「未練の整理」という言葉がでてくる。死は時期を選ばず誰にでも平等にやってくる。そして何歳で死んでも、どのタイミングで死んでも未練は必ずのこる。だからできる限りの未練の整理をしておくことでしょうね、と。ある年齢を超えて生きることは未練の整理をすることかもしれない。自分が知る死の中で、父ほど未練を残して亡くなった人を他に知らない。その未練は僕にも遺っている。父のことだから、きっと今の僕のこともあの世で未練たらたらだろう。父は死期を悟った後、僕ら家族のために残りの殆どの時間を使った。僕はそんな父の覚悟を知ろうとせず、悲しみから逃げたのだ。逃げて逃げて、写真から逆襲されたのだった。なんにせよ僕は一先ずは、因果なあの作品のプリントをやり遂げて、そのうちに家へ帰って、責任を果たさなければいけない。というか、父のためにそうしたいのだ。
子供の頃、父が育った家の裏で、写真にあるような木にタヌキの親子がしがみ付いているのを見たことがある。時間は夜中で、家族に起こされて見に行ったはず。記憶には夜なのに明るくて、タヌキたちの顔が見えるようだった。それから、なぜかタヌキをみる僕ら家族の後ろ姿も被ってきて、父が僕に見せたかった自身の故郷の感性までも思い出させる。思い出も記憶も曖昧。童話や昔話みたいな創作が干渉して、ありもしない事実を創り出しているのかも。だけど、半壊した現在の父の家には実際にタヌキの親子が住んでいた。僕があの夜に見たタヌキの姿とは全く違っていて、思ったよりワイルドだったけれど。
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4 鯨喰らいのリストカッター
2021.02.08 Mon. 10:44日暮里駅に朝8時。パン屋へ行き、紫の頭をした女の子が作った最高に美味しいパンを食べる。それから上野公園まで歩いて、道すがら知人とすれ違い、気付いたら僕の目の前には野口英世がいる。噴水の周りには凧を飛ばしている親子がいた。青空に浮かんだ凧に、飛んで行く鳩が重なる。海外では鳩のことをフライングラットと言うらしい。都会の鳩は大気中の汚れをまといウイルスを運んでいるのだとか。『ミミック』という映画を思い出す。福島の後輩からもらった辛ラーメンの袋が、ガンクラブチェック、ポリコットンのウールジャケットのポケットの中でシャリシャリ言う。あれから入れっぱなしだったのだ。試験管を光にかざす野口英世の銅像を見上げて、ポケットの上からしばらくシャリシャリさせる。シャリシャリ、シャリシャリ。圧倒的に僕は1人だ。

昨夜は同居人と赤ワインを散々空け、最終的には二人で号泣し、罵り合い励まし合い、トイレへ駆け込んで何もかもを吐き出して寝た。途中救急車のサイレンが聞こえてきて、同居人は「自分たちを迎えにきたのかも。自分たちの生活はまるで映画みたいだ」と言った。意識を無くしてどのくらいか経った頃、ある女の子からの着信で目が覚めた。捕鯨地域出身で、腕にリストカットの痕がある女の子。彼女が商業捕鯨地域の出身だと知ったのは、上野科学館のでかいクジラの前を通った時だった。彼女はでかいクジラをみつけると、地元の鯨料理や捕鯨問題の話をして、その後は鶯谷のお城の方へ消えていった。5年も6年も前の話で、それから連絡をとっていなかったが、いまになってなぜだろうか。三回の着信で携帯は静かになった。メッセージも留守電も無し。
都市は1人になれる。ジョン・ケージの『4分33秒』の鍵盤の蓋を閉める音みたいなもので、自分を知らない人たちが大勢いるからこそ1人を実感できるのだと思う。これが田舎だと本当に1人になりすぎて、カミソリみたいな自意識が内面に迫ってくる。そんな様な撮影に辛ラーメンをくれた後輩は何度か付き合ってくれた。辛ラーメンのシャリシャリを続けながら、科学館のでかいクジラの前まで来た。科学館の入口付近には救急車が止まっていて、担架で横になる男の側で二人の子供がよくわからない顔をしていた。秋色を引きずったような木々が三人の背景になって、なんだか家族の良い風景に思えた。左に行けば鶯谷、右へ行けば上野。考えるまもなく上野駅方面へ向かって梅の花が咲いているのをみかけた。
もしかしたら、あのクジラの女の子はどこかで偶然に僕を見掛けたのかもしれない。そして懐かしくなって連絡してきたのかもしれない。都市は1人になれる。沢山の他人の中に、記憶の誰かや叶うことのなかった人生を見いだすこともできる。「別の世界では二人は兄妹だったのかもね」。もう会うことも連絡もできない人のことを考える。その人がこの中の誰かになっていると思ったら、寂しさや後悔より、同じ世界で生きている実感が湧いてきて少し嬉しい気持ちになった。そして昨夜の着信の理由が愛らしい過去からの悪戯のように思えた。
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2 朝食のアイロニー
2021.02.07 Sun. 7:33ここ一年の東京で何人かの友人に起きた出来事を思うと、神様はいったいどこにいるのだろうか?と思う。困難の上にまた更に困難がやってきて、最後は理不尽さによって絶たれたある友人は「もう少し頑張りたい、俺は頑張っても良いのか?」と僕に尋ねてきたほどだった。その理不尽さは「あなたには頑張る余地は残されていませんよ。もう終わり。何もかも終わったのです。」と人生に宣告されているようなものだった。そうだ、当たり前だ、この理不尽さの前に於いては、頑張ることにさえ許しを乞うような気持ちになるんだ。彼の言葉はまるで人生の地べたから発せられたみたいだった。この最悪はいったいなんだ?

ここでは朝6時に目が覚める。目が覚めて寝具から這い出て、朝のコーヒーとシリアルを僕と同居人の分を作る。6階の角部屋、大きな2枚の窓からはみたこともないくらい綺麗な都市の朝の光が入り込んでくる。コーヒーを飲んで、シリアルを食べて本当に美味しいと思う。朝食が最悪をよりいっそう盛り上げて一日がはじまる。僕は生活をしている。そして見たかった誰かの生活を見ることも知ることもできている。同居人が仕事へ行く。食器を洗う順番を決める。幸せとして実感する。僕は生活をしている。
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3 新しくなる
2021.02.07 Sun. 7:35この部屋での寝具はマットレスと寝袋。寝ることが苦手で寝付くまで二時間も三時間もかかる僕が、ここでは寝袋とマットレスであっという間に快眠することができている。惨めな気持ちになるばかりか、掃除も洗濯も楽だし、部屋のなかでキャンプをしているような気分で楽しい。今まで寝付けなかった理由は寝心地以前の別の何かにあったわけだ。

人生の理不尽さの極みを経験したかのような例の友人は、それからすぐに何度目かのハローワークへ向かい、係りの人たちの強烈なコロナリスクを心配するくらいの余裕を見せていた。彼はいろいろの報告をしてくれたあと「最悪はもっとあると思ってるぜ」と、これから地獄へむかって、そして生還してくる映画の主人公みたいなことを言って笑った。凄みさえ感じる今の彼を見ていると、確かに人間は神が作った最高傑作かもしれないと思えてくる。
コロナ渦以前、以降、彼は常人なら絶望をしてしまうような世界にいた。貧困の巣の中で、生の末端が蠢く様を見た。彼はそれを気が狂う寸前で話したし、僕も気が狂う寸前で聞いていた。行動するほど苛まれるシステムに、これが現実か?と自分すら疑いたくなった。ところが僕らはどこかで熱みたいなものを捨てずにいた。特に彼は、文字通り現実に立ち向かい、日々自分を更新し続け、みるみるうちに順応し世界を愛するまでになっていた。
世界は理不尽だが僕はこの生活が好きだ。寝袋一つで快眠できるこの生活が好きである。起きると肩が出ていて寒い。改めて自分が寝袋で寝ていたことに気付いて可笑しくなる。これから最悪が始まるかも、見るかも、知るかもしれない。けれどそんな誰かの人生の側面の反対に、寝袋に包まれたミノムシのような僕がいる。信仰は持たないが、トルストイの小説のタイトルを思い出す。『光あるうち光の中を歩め』。
同居人はまだ起きてこない。起きるタイミングでコーヒーを出せるように準備をしようか。いや、同居人の方が僕より美味しいコーヒーを淹れることができる。準備の段階ですら僕よりうまくやる。やることとやらなくていいこと、必要なものといらないもの。削ぎ落とされていく何かを感じる毎に、当たり前から逸脱していくのがわかる。これはそう、新しくなる。僕は彼が新しいと思うし、僕もまた新しくなっていると思う。
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1 移動と停留
2021.01.07 Thu. 6:55この写真を撮ったのは2010年頃。この頃は月の半分は移動をしていて、いつもどこか知らないところへ向かっていた。そんな生活を見た誰かに「旅はいいですよね」と言われることがあったけれど、旅は好きではない。「旅情」みたいなものが好きではない。

「ここではないどこか」とか「旅に於けるロマン」とか地獄のような感性だと思っている。知らない土地へ行っても写真を撮ることは殆どない。地続きな日本のどこにでもあるような風景に既視感を感じて絶望していたくらいだ。間違って撮ったとして、そこに写っているのは幻想の旧懐や旅情に依る自惚れが殆どだ。だから旅ではなく「移動」、あくまで「移動」。電車や新幹線、バスや飛行機、車の助席…移動中は安心する、物事がイージーになる。目的地は失われて、永遠に留まることなく移動だけをできたらいくらでも眠れるし、いくらでも考えることができるんじゃないかと思う。
反対に「停留」には不安を覚える。同じ場所に留まり続けることは僕にとって最も苦しいことだ。例えば窓。移動中の窓を見ると、色は残像に形は線になって混ざっていき、窓の外の世界のことなんてわかりはしない。わからなくて良い、知る必要もない。時間と外の世界が混ざっていく、それが目にも気持ちにも心地よい。ところが停留中の窓はまるで変化がなく、雲の形や空の色が変わるばかり。みつめているとやはり地獄みたいな感性に寄っていく。時には鳥が飛んでいくが、見惚れたが最後、「懐かしさ」と「諦め」、達観の勘違いの地獄行きである。
去年は「移動」をすることができなかった。「停留」の毎日に精神的にバランスを崩した状態で、僕にとっては悪徳の所以になるような拠り所を探すような日々も過ごしてしまった。ついには停留にも堪えきれず、窓の外が見えないようにカーテンを閉じっぱなしにした。天気も時間もどうだっていい、遮光された部屋の中には移動も停留もない。すると時間が生きた塊のようになって現れる。塊は静かに優しく寄り添ってきたかと思うと、そのうち首や肩にまとわりついてくる。決まってそんな時に目の前にあるのは、膨大な数の過去、時間のコマ、写真だ。いつの間に錘のようになった時間の塊は、抗うことに甘んじる僕を記憶の底なしへ沈めて行く。
20代前半、友人が「偉大なる遺産」という言葉をよく使っていた。ディケインズの影響からだったと思う。「形ない何かを遺すことに意味がある」というような意味で、僕はその言葉に好感を持っていた。記憶の底なしで、僕は何度かその言葉の音色を聞いたような気がする。コロナ禍で「こんな時代だから」とどこからか聞こえてくる。しかし「こんな時代」とは「どんな時代」かと思う。過去を思い返しても、出てくるのは懐かしさの前に「こんな時代」の積み重ね。行くも地獄、戻るも地獄。だったら進む方がわずかばかりは肯定できる。間違っても僕は悲観も楽観もしない、達観や傍観をして今を曖昧にはしない。過去を振り返り懐かしむ前に、今を特別に思うより、未来に遺すこと。それは写真そのもの。写真は今を過去にするからこそ、僕自身が今を悔やみ過去を懐かしむような人間でいてはいけない。カメラを持って懐かしいと思った瞬間に、誰かにとっての鏡が砕けちっていってしまう。未来はわからない、わからないことは素晴らしい。いまだ未来にはわかりたいと思える余地がある。それだけに懐かしさを寄る辺にすることなく過去を省みて参照することは止めない。
錘のような時間の塊を突き放すには、やはり「移動」しかないように思う。どんな状況であれ、僕自身が何者で何をしようとしていたのか、自身に忠実でいるかどうか、それだけのことなのだ。