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1 移動と停留
2021.01.07 Thu. 6:55この写真を撮ったのは2010年頃。この頃は月の半分は移動をしていて、いつもどこか知らないところへ向かっていた。そんな生活を見た誰かに「旅はいいですよね」と言われることがあったけれど、旅は好きではない。「旅情」みたいなものが好きではない。

「ここではないどこか」とか「旅に於けるロマン」とか地獄のような感性だと思っている。知らない土地へ行っても写真を撮ることは殆どない。地続きな日本のどこにでもあるような風景に既視感を感じて絶望していたくらいだ。間違って撮ったとして、そこに写っているのは幻想の旧懐や旅情に依る自惚れが殆どだ。だから旅ではなく「移動」、あくまで「移動」。電車や新幹線、バスや飛行機、車の助席…移動中は安心する、物事がイージーになる。目的地は失われて、永遠に留まることなく移動だけをできたらいくらでも眠れるし、いくらでも考えることができるんじゃないかと思う。
反対に「停留」には不安を覚える。同じ場所に留まり続けることは僕にとって最も苦しいことだ。例えば窓。移動中の窓を見ると、色は残像に形は線になって混ざっていき、窓の外の世界のことなんてわかりはしない。わからなくて良い、知る必要もない。時間と外の世界が混ざっていく、それが目にも気持ちにも心地よい。ところが停留中の窓はまるで変化がなく、雲の形や空の色が変わるばかり。みつめているとやはり地獄みたいな感性に寄っていく。時には鳥が飛んでいくが、見惚れたが最後、「懐かしさ」と「諦め」、達観の勘違いの地獄行きである。
去年は「移動」をすることができなかった。「停留」の毎日に精神的にバランスを崩した状態で、僕にとっては悪徳の所以になるような拠り所を探すような日々も過ごしてしまった。ついには停留にも堪えきれず、窓の外が見えないようにカーテンを閉じっぱなしにした。天気も時間もどうだっていい、遮光された部屋の中には移動も停留もない。すると時間が生きた塊のようになって現れる。塊は静かに優しく寄り添ってきたかと思うと、そのうち首や肩にまとわりついてくる。決まってそんな時に目の前にあるのは、膨大な数の過去、時間のコマ、写真だ。いつの間に錘のようになった時間の塊は、抗うことに甘んじる僕を記憶の底なしへ沈めて行く。
20代前半、友人が「偉大なる遺産」という言葉をよく使っていた。ディケインズの影響からだったと思う。「形ない何かを遺すことに意味がある」というような意味で、僕はその言葉に好感を持っていた。記憶の底なしで、僕は何度かその言葉の音色を聞いたような気がする。コロナ禍で「こんな時代だから」とどこからか聞こえてくる。しかし「こんな時代」とは「どんな時代」かと思う。過去を思い返しても、出てくるのは懐かしさの前に「こんな時代」の積み重ね。行くも地獄、戻るも地獄。だったら進む方がわずかばかりは肯定できる。間違っても僕は悲観も楽観もしない、達観や傍観をして今を曖昧にはしない。過去を振り返り懐かしむ前に、今を特別に思うより、未来に遺すこと。それは写真そのもの。写真は今を過去にするからこそ、僕自身が今を悔やみ過去を懐かしむような人間でいてはいけない。カメラを持って懐かしいと思った瞬間に、誰かにとっての鏡が砕けちっていってしまう。未来はわからない、わからないことは素晴らしい。いまだ未来にはわかりたいと思える余地がある。それだけに懐かしさを寄る辺にすることなく過去を省みて参照することは止めない。
錘のような時間の塊を突き放すには、やはり「移動」しかないように思う。どんな状況であれ、僕自身が何者で何をしようとしていたのか、自身に忠実でいるかどうか、それだけのことなのだ。