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3 新しくなる
2021.02.07 Sun. 7:35この部屋での寝具はマットレスと寝袋。寝ることが苦手で寝付くまで二時間も三時間もかかる僕が、ここでは寝袋とマットレスであっという間に快眠することができている。惨めな気持ちになるばかりか、掃除も洗濯も楽だし、部屋のなかでキャンプをしているような気分で楽しい。今まで寝付けなかった理由は寝心地以前の別の何かにあったわけだ。

人生の理不尽さの極みを経験したかのような例の友人は、それからすぐに何度目かのハローワークへ向かい、係りの人たちの強烈なコロナリスクを心配するくらいの余裕を見せていた。彼はいろいろの報告をしてくれたあと「最悪はもっとあると思ってるぜ」と、これから地獄へむかって、そして生還してくる映画の主人公みたいなことを言って笑った。凄みさえ感じる今の彼を見ていると、確かに人間は神が作った最高傑作かもしれないと思えてくる。
コロナ渦以前、以降、彼は常人なら絶望をしてしまうような世界にいた。貧困の巣の中で、生の末端が蠢く様を見た。彼はそれを気が狂う寸前で話したし、僕も気が狂う寸前で聞いていた。行動するほど苛まれるシステムに、これが現実か?と自分すら疑いたくなった。ところが僕らはどこかで熱みたいなものを捨てずにいた。特に彼は、文字通り現実に立ち向かい、日々自分を更新し続け、みるみるうちに順応し世界を愛するまでになっていた。
世界は理不尽だが僕はこの生活が好きだ。寝袋一つで快眠できるこの生活が好きである。起きると肩が出ていて寒い。改めて自分が寝袋で寝ていたことに気付いて可笑しくなる。これから最悪が始まるかも、見るかも、知るかもしれない。けれどそんな誰かの人生の側面の反対に、寝袋に包まれたミノムシのような僕がいる。信仰は持たないが、トルストイの小説のタイトルを思い出す。『光あるうち光の中を歩め』。
同居人はまだ起きてこない。起きるタイミングでコーヒーを出せるように準備をしようか。いや、同居人の方が僕より美味しいコーヒーを淹れることができる。準備の段階ですら僕よりうまくやる。やることとやらなくていいこと、必要なものといらないもの。削ぎ落とされていく何かを感じる毎に、当たり前から逸脱していくのがわかる。これはそう、新しくなる。僕は彼が新しいと思うし、僕もまた新しくなっていると思う。